STORY
岩井洋美「コヨナク愛ス」へのご訪問ありがとうございます。
2019年6月21日 初のオリジナルCD「コヨナク愛ス」が発売されました。
ライブはもちろんですが、CDを通して自分の歌を聴いていただけるようになったこと。
これは私にとって大きな大きな喜びです。
もともと歌手を目指していたわけでもなく、ましてやCDを世に出すということは想像すらしていなかった私の音楽ストーリーをお話したいと思います。
♪ 歌の原点
ともかく、歌うことが好きな子供でした。小さなレコードプレーヤーで童謡やタイガース(GSブームの頃でしたから!)のレコードをかけながら、いつも一緒に歌っていました。歌い始めたのが何歳かも思い出せないぐらいです。
幼稚園になるとピアノを習い始めます。当時の女の子のお稽古事の定番でした。最初のピアノの先生がたまたま声楽科卒だったことから、「ピアノと歌はセット」でスタート。歌うことが大好きだった私には、本当にラッキーな最初の先生との出会いでした。
小学校3年のとき、父の仕事の関係で神戸から東京へ引っ越すことになったため、何度か先生は変わったものの、ピアノと歌をずっと続けていたのは、ただ楽しかったから、好きだったからということだけだったと思います。
♪ しあわせの象徴
成長するにつれてピアノの練習もさぼりがちになり(笑)、中学や高校になる頃にはクラシック以外の音楽にはまりだします。当時ニューミュージックと言われ始めた音楽をピアノで弾いては歌い、カーペンターズやクイーンを歌いたいばかりに、英語の辞書とも格闘していました。友人とバンドを組んで、キーボードとコーラスを担当していたこともあります(サザンやRCサクセションなんかもやりました)。
思い出すのは土曜の夕方。食事の前に父が一杯飲み始め、私のピアノに合わせて昭和歌謡などを家族みんなで歌うという週末のお楽しみです。私にとってその時間は家族の日常でしたが、今思い返してみると、とても楽しかったし、幸せな時間だったのは間違いありません。
自分にとって「歌うこと=しあわせの象徴」になっているのは、この家族の原風景にあると思います。
♪ 歌に救われる
いつしか週末の恒例行事もその回数を減らし、ピアノも歌もレッスンからは遠ざかっていました。
しかし、結婚をして2年を過ぎた頃、夫がフィリピンのマニラに転勤となったことで、歌がまたぐっと身近なものになります。初めての海外駐在です。まずは知り合いをつくるために、日本人会のコーラスサークルに入ることにしました。コーラスなんて、学生時代の合唱コンクール以来でしょうか。
ここでフィリピン人のオペラ歌手、サントス先生と出会います。この先生のレッスンを受けるようになったことで、たくさんのフィリピンの歌を歌えるようになり、フィリピンの人たちのコーラスにも参加することになりました。いろいろな場面で歌う機会もあり、本番とリハーサルが立て続けにあるときなどは、思わず「歌手か?!」とツッコミたくなるような毎日です。
日本人会のコーラスでは、毎年大きなホールでクリスマスコンサートを開くのですが、ソリストと指揮者も経験しました…今さらですが、素人なのに恐ろしいことです。
コンサートを開く目的は、その収益で現地の恵まれない家庭の子供を学校に通えるようにする活動のためです。歌うことが子供を救うことになるわけですが、この活動によって救われていたのは自分だったように思います。
歌うことが日本を離れて暮らしていくことの支えであり、素晴らしい人たちとの出会いも、多くの貴重な経験もすべて歌が私に与えてくれたものです。
フィリピンから戻ってからは、音楽から離れることはありませんでした。子供の頃を思い出し声楽家の先生についてずっとクラシック(オペラや歌曲)を楽しんでいました。声楽はあくまでも「趣味」ではありましたが、ちょうどテレビで「のだめカンタービレ」が話題になっていた頃、1年間だけ音大にも通いました(社会人枠で入学!)。勉強も山盛り、実技もいっぱいという毎日は大変でしたが、若い学生さんと一緒に授業を受けたのも楽しい思い出です。
♪ 人生を大きく動かす出会い
結婚してから20年間、ずっと専業主婦だった私が突如仕事を始めることになります。マーケティングコーチという仕事です。夫からそういう仕事があると聞いた私は、「なんかおもしろそう!私にできそう!」と勝手に思い込み、マーケティングコーチのための講座に通うことにしました。
このとき私は50歳目前。講座に来ていた人は既に仕事をしていて、新しいスキルを求めてきている人ばかりだったので、専業主婦でいきなりやってきた私はかなり浮いていましたが、そこで出会ったのが藤原綾子という人です。彼女とは講座が終わった後も、我家でご飯を食べたり、何かと一緒に仕事をする機会も多く、彼女のボイストレーニングの先生である鎌田昌郎プロデューサー(以下鎌田P)とも、仕事の場で出会いました。
彼女が主催するコミュニティ「魔女ラボ」の勉強会の講師として出会ったのが最初。彼女とスタートさせた「女性起業塾」のプロモーションビデオ作成の時が2度目。しかし、この時点では鎌田Pが自分の人生を大きく動かす人になるとは想像もしていませんでした。
♪ シンガーへの道
「ライブで歌ってみませんか?」鎌田Pからのお誘いです。
確かに2回会っています。子供の頃から趣味で声楽をやっていることも話しました。でも、この時点で、私の歌を聴いたことがない!
「歌を聴いたこともないのに…なんか見えるのか?聞こえるのか?」と我家では大騒ぎになりましたが、藤原綾子さんと一緒にライブをやるというこのお誘いにのっかることにしました。
「ライブハウスで歌うなんて、クラシックとはいえ長年歌い続けてきた自分へのご褒美だわ!」
それが、2015年7月22日のこと。52歳でのライブハウスデビューでした。
初めてのライブから数ヵ月後、鎌田Pからこう言われます。「本格的にやってみませんか?」
実はこのとき、お断りしました。
「無理です!無理です!世の中には私より歌の上手な人たくさんいます!」
「本格的」の意味もよく分かっていませんでしたが、内心は「何を言っちゃってるんだろう…この人は…」って思っていました。でも、そのとき鎌田Pに言われたことが今も心に残っています。
「歌は上手いに越したことはない。でも、上手ければいいってもんでもない。」
「えっ?そぉ?」とちょっと心が動いたものの、やっぱりそのときには「本格的にやります!」という返事はしないままでした。
それでも、その後も鎌田Pは私にライブで歌う機会を度々与えてくださいました。今となってはそのことに感謝しかありません。
最初の「無理です!」から約1年後、もう一度鎌田Pから声がかかります。「本格的にオリジナル曲を作って歌いませんか?」
この時点で、もう断ったり尻込みしたりする理由なんてありません。「やります!頑張ります!」
♪ CD「コヨナク愛ス」発売へ
オリジナル曲を作ってもらって、歌って、録音して、アレンジを加えて作品にするということをやっていく中で、鎌田Pは割と最初の頃からCD発売の話をしていました。
とは言え、本当にそんなことが出来るのか半信半疑でしたし、「そのうちCD出せたらいいな~。そんな日が来たらいいな~」という夢物語でしかありませんでした。最初からCDリリースを夢見ていたわけではなかったのです。でも、製作ワークでオリジナル曲が増えてきて、ライブも繰り返すうちに、「出せるものならCD出したい!」という気持ちに変わっていきます。
ただ、そういう気持ちの一方で、「自分の歌をお金を払って聴いていただく」ということへの自信の無さ、覚悟の無さとも格闘していました。
でも、いつまでもそんなことを悩んでいる場合ではありません。自分の中での葛藤は長いことあったのですが、いよいよCDリリースに向けての準備が始まりました。製作ワークを始めてからのオリジナル4曲が収録されることも決まり、CDのタイトルも「コヨナク愛ス」に決まりました。
「こよなく」は「とても」とか「非常に」の大和言葉です。今なら「超」とか「めちゃくちゃに」というかんじでしょうか。「歌うことがすごぉ~く好き!」という自分の気持ちそのままです。
忌野清志郎がライブのときに「みんな愛し合ってるか~い」と言っていましたが、私のイメージとしてはその大和言葉版というかんじでもあります。
鎌田Pをはじめ、たくさんの人の支えや協力があって、ついにCD「コヨナク愛ス」は、2019年6月21日発売されたのです。
子供の頃から歌手に憧れていたわけでもなければ、自分のCDがリリースされるなんてことは夢にも想像していませんでしたが、本当に有難いことに私は大きな喜びを手にすることができました。
誤解を恐れずに言うなら、CDという形で作品が発表されましたが、「長年の夢が叶った!」という感覚はありません。私にとって、このCDリリースはゴールではなく、むしろスタートだからです。
CDにしろ、ライブにしろ、多くの方に私の歌を届けたいし、私の想いを伝えたいと思っています。
それは、あなたの心の奥底にある「コヨナク愛ス」を感じて欲しいから。「コヨナク愛ス」の対象は、自分の側にいる誰かであり何かであり、自分自身であります。それぞれ違っていたとしても、誰の心のなかにもあるものです。
自分で自分を決めつけたり、自分で自分の自信を失わせていたり、自分で自分を縛り付けていたり…そういう人がたくさんいます。そんな人達の今置かれている状況や立場や環境や気持ちに歌がリンクしたとき、きっとその人の心の奥底にある「コヨナク愛ス」が動き出すと信じて、私はこれからも歌い続けていきたいと思っています。